• Jazz Cafe CHIGUSA Jazz Cafe CHIGUSA
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ARCHIVES

YouTube・映像新聞、雑誌、Net掲載・ちぐさ所蔵のコレクション紹介

Net掲載

●2019年10月25日 ヨコハマ経済新聞
野毛長卓UTAGE プロジェクト開催に関して
●2019年10月14日 ARBAN
モカンボセッション
●2019年9月17日 神奈川新聞 WEB版
伝説の店「ジャズ喫茶ちぐさ」

新聞/雑誌掲載

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ちぐさコレクション

Vディスク
Vディスク リスト
フォトアルバム
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グッズアルバム
グッズアルバム

Vディスク:第二次世界大戦、戦中戦後の数年間、米軍が前線や占領地の兵士に配布したレコード「Vディスク」(78回転)が50 数枚ちぐさには残っています。 (米軍以外でこれだけの数があるのは珍しい)
製作は国家事業であったため所属レーベルや契約は関係なく、数々の大物ミュージシャンがレーベルの垣根を越えて集められ、共演が残されています。 録音されたのは1943年から49年までで、陸軍905枚、海軍275枚、の計1180枚。グレン・ミラー、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、といったビッグ・バンド・ジャズを中心に、 アート・テイタム、ビリー・ホリデイ、ビング・クロスビー、フランク・シナトラといった豪華な名前が並んでいます。 コレクターの視点から見てもかなり貴重なものと思われる、戦後米軍に接収された場所でだけで楽しまれた音源です。
Vディスクリストはこちらから

写真:店内には奥村勝司氏がスイングジャーナル誌で撮影した写真の数々が飾られていますが、その他にもパネルやアルバムで貴重な写真が残っています。 ビル・エバンス、カウント・ベイシー、ディジー・ガレスピー、ロン・カーターといった来日ミュージシャン、国内では穐吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正、クレイジーキャッツといった方々の写真が保存されています。 またスイングジャーナル誌に掲載されなかった360枚のポートレイト写真も店内では閲覧できます。

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その他:以前の店から引き継がれた物の中には、SPレコードや、ジャズ関連の専門誌、コンサートチケットやパンフレット以外にも、当時の映画や六大学野球のチケット、落語に関する品も数々残っています。
また、1970年代の日本のジャズ専門レーベル「スリー・ブラインド・マイス」が受賞した、ジャズディスク大賞(スイングジャーナル社)のトロフィーも寄贈されて保管されています。
なお、以前の店が閉店した際に、音響機器と共に椅子、テーブルなどの什器や看板などは横浜市と野毛町の協力で保管されていたため、現店舗では懐かしのそれらの品々がお目にかかれます。

吉田衛 横浜昔ばなし
居留地から落語まで
聞き書きはこちらから

吉田衛さんは自身、外国人居留地に住んだこともあって横浜の歴史に強い関心をもっていた。そして自分が見聞きしたことを残さなければならないともいっていた。そして遺品の中から見つかったのが本文で、5話に分けて紹介します。



CHIGUSA Recordsは2013年5月2日の「開運橋ジョニー照井顕さんを囲む会 & 金本麻里ミニライブ」からはじまったと言っていい。ちぐさの常連さんたちと照井さん一行の交流会となり、最後にお隣の店リヨンのRyuさんこと津田龍一と金本麻里のセッションがこの「枯葉」。



「3.11」1年の再オープン日を間近に控えた2012年2月23日、旧店舗名コロンビアから「CHIGUSA」に変わる瞬間。店内の改装も急ピッチで進んでいました。再興のきっかけはこちらの 「レコード1枚 夢残す」という記事からでした。

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし①
ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一
「ちぐさ」 の親父、吉田衛さんは自身、外国人居留地に住んだこともあって横浜の歴史に強い関心をもっていた。
そして自分が見聞きしたことを残さなければならないともいっていた。
そして遺品の中から見つかったのが本文だ。どなたかが親父のしゃべった話を聞き書きしたもので、横浜や中区に興味のある方には今更ながら嬉しい文である。

●埋地七ヶ町のこと 私は大正二年、当時埋地七ヶ町(不老町・万代町・翁町・扇町・松野町・寿町・吉浜町)と呼ばれていた土地で生まれた、三代目の浜っ子です。 今は中村川だけを残して、みんな埋め立てられてしまいましたが、この七ヶ町は周囲を四筋の川に囲まれた一角でした。 大岡川にかかる橋を渡れば、山下町の外国商館街、そして勿論港に近い関係で、この埋地には、何らかのかたちで、輸出入に関係のある仕事を持つ人々が数多く住んでいたのです。 外国商館へ納入する輸出品の陶器、漆器、絹織物を扱う店、また木綿、ちぢみ木綿の加工所も多く、その中の一軒が、後に「横濱浮世絵」のコレクションで有名になった丹波商会です。
加工所といっても皆規模の小さい、家内工業的なものばかりでしたね。次には輸出用木箱屋、現在(いま)のようにコンテナなどない時代ですから、輸出品はみなこの木箱に入れて積み出されたのです。木箱の専門店は、住吉町の渡辺、中華街の隅田など約六軒ほどありました。 後述しますが、私の父はこの木箱に関係のある輸出梱包の仕事を請け負っておりました。 この埋地には又、港へ働きに行く沖仲士達が寝泊りする人足部屋も建ちならび、それぞれの組の親分が取り仕切っていました。 現在市役所のあるあたりには、明治の頃から魚市場があり、ここへ通う仲介人の多くも又この町の住人でした。 つまり七ヶ町は横浜の下町を形づくる活気のある庶民の町だったのです。 その時分、路地裏を駆け廻って遊んでいた子供達が、別れ際に交わす「アバヨ」の言葉は土地柄から云って、居留地のフランス人の「アヴォアール(さようなら)」からきていたのでないかと私には思えるのですが・・・ 戦後、「バイバイ」が日本語化してしまったようにね。 余談ですが、私の通った寿高等尋常小学校は、大正八年の埋地の大火のあと、鉄筋コンクリート三階建て、コの字型の校舎として再建され、これは、時代からいって日本では初めてと思います。その後震災にも戦災にも倒壊せず残っていましたが、先年区画整理のため、取り壊されてしまったのは卒業生の一人としては本当に淋しいことです。

●居留地に住んでいた頃 居留地のことを書いた本は沢山ありますが、其処に住み寝起きした経験を持つ人は少ないのではないでしょうか。前述の埋地の大火で焼け出された父は、荷造業だった関係で、山下町49番のクーパー商会へ蔵番として住み込み、私共一家は、一時期居留地内に住むことになりました。 私が六才の時です。 商館の倉庫の、二階の板の間に六帖の畳を敷いて、家族も一緒に暮すことになったのです。現在の上野運輸KK本店の位置で、前に赤レンガ二階建のシンガーミシン日本総代理店がありました。道路を隔てたすぐ隣りが、現存する48番へルム・ハウスです。 このあたりは、昼は商売に忙しい人々の出入りの多い街ですが、夜になると商館主も蔵番だけを残して山手の住居に帰ってしまいますから、ガス灯だけが灯(とも)る人気(ひとけ)のない淋しい街になります。 附近には食物(たべもの)を売る店も、無論ありませんから、母は橋を渡って埋地へ毎日お菜を買いに通っていたようです。おとな達がみんな忙しい居留地では、私の遊び相手など一人もなく、昼は桟橋へ魚釣りに行ったり、女工さん達が立ち働く倉庫へ入って遊んだりしたものです。 以下はそれ以後私が見聞きした、居留地の有様です。

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし②
ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一
・弁当屋のこと 
大正時代には、居留地には、食堂や、それに類する店はありませんでしたから、商館勤めの人達の昼食を運んでくる弁当屋という商売がありました。 現在のように、他処(よそ)で作った弁当を届けに来る訳ではなく、館員の人達の家々を廻って手作りの弁当を受け取り、お昼に配って歩く、いわば便利屋みたいなものなのです。 車に積んでこられた弁当には、届先の名前、(例えば何商会、何々様)と書いた木札を下げてありました。届けてくる弁当箱は、今も見かける瀬戸物の重ね鉢で、必ず木箱に納め先の名札が下げてありました。 一軒あたりいくら位で請け負っていたのか、子供の私にはよくわかりませんでしたが、多分一ヶ月五十銭位で、一円とは取っていなかったのではないでしょうか。 無論、弁当運びを頼むことの出来るのは、商館勤めでもある程度の地位の人達だけだったのでしょう。

・商館番頭 各々の商館には番頭がいて、私達は商館番頭と呼んでいました。彼らは大正時代には着物に角帯、前掛をかけているのが普通で、洋服を着るようになったのは震災後です。住み込みの番頭というのではなくて、みんな他処から通勤していましたが、例外は蔵番で、これは留守番兼蔵番として住み込んでいたのです。 番頭はその商館の中のチーフであり、マネージャーでしたから、とても権威があり、商売のことでは、普通は館主はめったに口を出さないのです。店の中のことは、どんな小さなことも番頭を通さなければ上に伝わらない組織になっていましたから、下に働く者にとって、番頭さんはとても怖い存在でした。

・商館の主人たちのことなど 外国人の館主達は、多くは山手の住居から通っており、各館の交流は、主に同国人同士付合っていたようです。各々の国のクラブがあって、そこに集って酒を飲んだり歓談していたのでしょう。 当時外国人は、東洋人に対する偏見があり仲々日本人を信用しませんから、金庫番をして鍵を預けるまでの信頼を得るのは、実にむずかしいことでした。然し一旦信用するとなると、他からの中傷には一切耳をかさず、厚い信頼を示しました。一方、中国人に金銭(かね)のことを任せる館主が多かったのは、華僑の常として団結も強く当時から財力もあった中国人達には、万一の場合には、銀行の保証も得られたからなのでしょう。 「どんたく」という言葉がありますが、私の知る限りでは、大正期の居留地では、日曜日を「どんたく」とは云っていません。ただ半どんという言葉はありました。それは、毎日野毛山で、正午を知らせる空砲がドーンと鳴ると昼休みになり、土曜日だけは、仕事が昼までで午後は休みになるので、半ドンと云うようになったのでしょう。税関も半日ですから商館も午後はどこも休みでした。 自分のことになりますが、私は昭和二年に、中華街にあったアブカー商会から独立したZ吉田商会のボーイとして入りました。輸出先は、英国・スエーデンその他で、取り扱う品物は、主にシルク、漆器、陶器類です。店は、店主とボーイの私だけという小さな規模ですから、輸出関係の仕事は何でもやらざるを得なかったのです。

・大正時代の居留地(山下町) 明治から震災までの山下町一帯は、商館を空いている土地に次々に建てていったのか、建物に沿った道路も曲がりくねっていて、現在のように整然としていたわけではありません。然し赤レンガや石造りの商館が立ち並んでいる異国風な街並みは、今、写真集などで見かける、巴里の下町の風景とそっくりだったように私には思えます。 この街も関東大震災で壊滅してしまいましたが、その後始末に陸軍の工兵隊が来て、危険だということで、焼け残った半壊のビルを爆破したのです。薩摩町に現存しているアクメ貿易は(旧蘭領印度銀行)はその時、一階以上を爆破し、地下室の部分だけ残ったのです。あれは明治時代の建物で今もその片鱗が伺われます。もとは丁度県立博物館(旧横浜正金銀行)を思わせる様式の大きな建物でした。 又海岸通りに残っている赤レンガの旧バタフィールド商会(現戸田平和記念館)が、わずかに震災前の商館の面影をとどめていますね。 明治、大正の横浜を偲ばせる洋館も、そのたもとに美しいガス灯が立っていた幾つかの橋も、横浜の街から殆ど消えてしまいました。二度の大きな災害に遭ったとはいえ、戦後まで、やっと焼残っていたものさえ大切にしない、壊したものはもう二度と造れるものじゃないのに実に残念でなりません。

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし③
ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一
・父の仕事
父が輸出梱包の仕事をしていたことは前述しましたが、輸出用木箱に詰めるパッキングは、震災前には藁を使っていたのです。陶器など重ねてくくるには、古米縄(こまいなわ)というのに霧を吹いて強くして用いました。ところがアメリカから藁に虫が湧くという苦情がきて、それに代る何かをということで、私の父が木毛(もくもう)というのを考え出しました。 現在も使われている木くずのようなパッキングがそれです。 父は特に美術骨董の梱包では名人と云われていました。今のようにコンテナなど勿論ない時代でしたから、破損し易い国宝級の佛像の梱包などは大変むずかしく、父は苦心の末独自の方法を生み出しおりました。その入念な仕事振りを買われて、明治三十年代のパリ万博以来、四年毎に博覧会が開かれる度に、梱包を請負うばかりでなく、出品物と一緒に四回も(パリ・メキシコ・シカゴ・ブラジル)渡航しております。 私の家にはポーツマス条約の全権として有名な外務大臣小村寿太郎の署名入りの、両開きで和紙の珍らしいパスポートが残されていますよ。 昭和十四、五年、ニューヨーク、サンフランシスコで戦前最後の万博が開かれた時には、私も父を手伝って十五、六体の佛像の梱包をやりました。父の仕事を通じて、日本の貴重な美術骨董が国外へ流出していくのを見て残念に思ったこともしばしばありました。

・港の風景 
昭和初期までは、無論トラックなどない時代ですから、輸出入貨物の運搬には、大八車、馬力、それと荷台が少し低く貨物の揚卸しがし易くなっている獨特の車が使われていました。 これは御車台もあって雨の日には幌をかけるようになっていました。すべて人力に頼っていた時代ですから、重い木箱を積んだ荷車を引いて坂を上るのは辛い仕事です。 地蔵坂など急坂の下には、押し屋がいて、十銭、二十銭の駄賃であと押しをしていたものです。馬を引いて待っているのもありましたよ。 沖仲士なんかも横浜獨特な気風が今も残っていますね。あれも命がけの大変な仕事でした。その頃港で荒っぽい彼らを仕切っていたのは、三品(さんぽん)組、矢部組、鶴岡組でしょうか。 現在藤木企業KKとして残っている藤木組は海岸一帯を取りしきっていたので、戦前は通称「海岸」と呼ばれていましたよ。

・人力車のこと
大正から昭和にかけて、タクシーが街に出現するまでは、人力車が巾をきかせていました。大正時代にはガス燈に「人力」と書いた「人力宿(くるまやど)」を町の処々に見かけました。 これは雇い主がいて車夫を何人か抱えて営業していたものですが、他に医者や大商店などでは「お抱え」といって特定の車屋が契約され何時でも間に合うようになっていました。これとは別に「もうろう」と呼ばれて、江戸時代の辻駕籠(かご)のように、街角に一人で客待ちしているのがありました。 冬には夜になると戸板で囲った中で焚火して客を待ち、中には法外な料金をふっかける者もありましたが、焼判を押した鑑札だけはみんな持っていました。桜木町、関内、特に桟橋の外に、ずらりと並んで梶棒をおろし、船から降りてくる外人客を待っている光景はいかにも横浜らしい風景だったように憶えています。

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし④
ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一

●趣味のことなど
・本牧チャブ屋街  横浜開港以来のチャブ屋の発生と変遷については多分別項に書かれていると思います。私もその語源は簡易食堂からきていると思いますし、むかしは昼飯時(ひるめしどき)になると「さあチャブにしよう」などと云ったものです。 若い頃(昭和初期)ダンスも音楽も好きだった私は、ダンス・ホールにもチャブ屋にもよく通ったものでした。 戦後はもうすべて接収地となって、一部はもう道筋さえ全く消えてしまいましたが、本牧、小港周辺の小路の両側に二十数軒の店が散在していました。和洋折衷のモルタル又は木造のペンキ塗り二階建の店が多く、入口にはネオンが輝き、店の名も“ニューヨーク”“バイオレット”などといかにも港街らしい風情のものがありました。年輩の方の中にはご記憶の方もあると思いますよ。 私は金もないのに、店の前へタクシーで乗りつけ、入口にいる婆さんに「頼むよ」と云うと、車代の三十銭を払ってくれるのです。常連だった故(せい)でしょうか。数日後に寿司でも持って借りを返しに行きました。 規模の大小はありましたが、店には必ずダンス・ホールがあって、客はまず女達と踊ってから目当ての女を指名するというわけなのです。チャブ屋は女郎屋と違います。ここの女達は前借のある者と、ない者と半々位で、みんな部屋代と会費を払って商売をしていました。ですから、何時、何処へ出掛るのも全く自由で、客に誘われて映画を観てお茶を飲んでから、夕方店へ帰ったりしていました。和服も着ていましたが、客とダンスをするので洋服の女も多く、当時流行のモダンという言葉がピッタリの娘達も多勢いました。 港が隆盛し、外人客も多く、横浜が最も横浜らしい情緒にあふれていた時代に、チャブ屋街は他の何処にもない、特色ある街だったように思います。 “チャぶる”から生れた“チャブ台”(食事の膳)という庶民の言葉も今ではもう殆ど使われていませんね。

・戦前のダンス・ホール
そもそも私が音楽を好きになったのは、ダンス(社交(ソウシャル)ダンス)を踊るようになってからなのです。ダンスに音楽はつきものですからね。もう昭和二年から踊っていました。その頃はまだダンス・ホールなんてありませんから前述したように踊れる所と言ったらチャブ屋だけでした。 横浜に初めてダンス・ホールが出来たのは、花月園ダンス・ホールですが(大正九年)、これは遊園地の一隅にほんの小さな小屋が出来ているという程度のものでした 初めてホールらしい処が出来たのは昭和三年の五月でした。山下町の谷戸坂近く(山下町82番地 現日石ガソリンスタンドの並び)で本町通りに面した角に、ユニオン・ダンス・ホールという名でオープンしました。無論社交ダンス場で客は会社員が多かったようです。教師もいて、竹内と云う人が上手(うま)いと評判でこの人のステップは今でも教本になって残っていますよ。アメリカへ行って習ってきたんでしょうね。ユニオンの附近、前田橋に近い所に、同じ年に横浜ダンス研究所というのが出来て、それが横浜ダンス・ホールからパロス、次にはフロリダ(山下町98番)と名前を変えていったものです。 フロリダになった頃(昭和八年頃)は有名で、当時の一流バンドや、外人のバンドも時には演奏していて、華やかなものでした。チケットは一枚十銭で、十枚綴一円とほとんどきまっていましたが、此処は一枚十二銭でした。その他私の記憶にあるのは、昭和四年できてきた次のような所です。

★ブルー・バード(後のオリエンタル 今のYMCAの先、住吉町一丁目一番)
★メトロポリタン・ダンス・ホール(弁天通一丁目の旧露路裏)
★カールトン・ダンス・ホール(真砂町二丁目の裏通りの角)
★太平洋(パシフィック)ダンス・ホール(中華街内 山下町157、現インターナショナル・エクスプレスビル)
★金港ダンス・ホール(伊勢佐木町通り喜楽せんべいビル四階)
★東横ダンス・ホール(東横線元住吉駅附近)

その頃のダンス音楽は、ワルツ、タンゴ、フォックストロッ、ルンバでしたね。生(なま)演奏はダンス・ホール以外では、やっていけないという条例がありましたから、好きな音楽を聞きたくて、よく通いました。チケット一枚では一曲(三分)しか踊れないのですからラーメンが十銭で食べられた時代には、仲々金のかかる遊びでしたよ。チケットの裏にダンサーの顔写真が印刷されていたのを、戦前派の中には懐かしく思い出される方もあると思います。
「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし⑤
ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一
・マスコットと開化亭
亡くなった小説家の大佛次郎は、開化の横浜を舞台にした小説をいくつか書いていますが、昭和のはじめにニューグランドホテルを住居のようにして、執筆していました。 日本大通の現在日銀の横浜支店になっているあたりに「マスコット」(注釈あり)という店があり、私も時々行ったことがありますが、彼をちょくちょく見かけました。大抵北村小松と一緒に飲みに来ていたようです。この「マスコット」を舞台にした小説に「愉快な仲間」というのがありますが、その本の扉に載っている絵は、この店の壁にかかっていた絵です。 店主はもと、フランス領事館で通訳をしていた人で小さな店でしたが、当時の文士達に愛されていたようです。 開化亭は、戦災で消えるまで不老町にあった明治以来の古い西洋料理屋でした。市役所の先の橋を渡った向こう、角に郵便局があり、その隣にありました。 むかしから“いんごう屋”で通っている、一風変った気骨ある親爺さんの店でしたよ。 店は普通のしもた屋で看板も何もなく、入口の大きな一枚ガラスに。開化亭と書いてあるだけなのです。入るとすぐ土間で一段高くなった処に二帖分位の畳が敷いてあって、ここで洋食を食べさせた。客は勿論座って待っているわけで、「遅いぞ。」なんて注文の催促でもしようものなら、親父が怒るので、みんな静かに皿が出てくるのを待っていました。 それで通称「いんごう屋」だったわけですが、美味い料理を食べさせるので、客は絶えなかったわけです。 相生町一丁目の梅香亭、あれも古くからある洋食屋ですね。

・寄席のはなし
横浜は、むかしから寄席の多い街でした。明治時代から、色々と変遷があったようですが、私の記憶では、埋地を中心として十一軒の寄席があり、それぞれに客を呼んでいました。 むかしの落語家は、東京から毎日通うわけにいかないので、十五日間泊りきりで高座に出たりしていましたね。今の伊勢佐木町四丁目にあった「寿」は浪花節専門で、関東では浪花節を演る者は。 ここへ出なければ一人前になれなかったものです。同じく三丁目にあった「新寿」は見番の二階にあり、ここには“野ざらし”の柳好が専属で来ていました。 その時分の寄席は、貸席で興行していましたからどこでも百五十席程の小さな小屋で、他(ほか)に藝事のおさらい会などにも使われていたようです。 戦前に盲目の浪曲師として有名だった綾太郎も横浜で、はじめは“あんま”として客の肩を揉みながら一席やっていたのですよ。 こんな風に往時の横浜には藝人を育てる土壌があったのですが、もうみんな遠い話になってしまいましたね。

(注釈)本の見返し絵が載っているのは北村小松著「呼声」(岡倉書房1937年)で、大佛次郎の「明るい仲間」(杉山書店1942年)の表紙には横山隆一が描いた「マスコット」の店内と思われる壁にも絵が描きこまれている。(大佛次郎記念館の益川良子さんにご協力をいただきました)